ミス・シンシア



ある会合で、英語で書いたり話したりする際、名前にMr. Mrs. Missを付けるのは有りか無しかという話になった。例えば、Mr. Taroなどというのは、おかしいという意見と、言えるという意見が出た。
言えるという人たちは、実際に外国人(必ずしも英語のネイティブではない)に対して使っているが、おかしいと言われたことはないとか、イギリスに留学していたとき、友人同士ではMr. Johnなどと呼んでいたのを聞いたことがあるとか、実体験から、Mr. Mrs. Missをファーストネームに付けて使えるという主張をした。

外国人におかしいと言われないからといってそれが正しいとは限らない。ぼくたちだって、外国人が話す日本語をいちいち正してやるわけではない。むしろ、ほとんどの場合、間違いを指摘しないだろう。
では、イギリス留学の経験はどうか。これは反論しようがない。
しかしこれは、ごく親しい間柄で、冗談半分に使っているように思われる。日本語で言うなら、ごく親しい友達の間で、「花子氏」とか、「山田ちゃん」などと呼ぶようなものか。
つまり、ぼくが言いたいのは、言葉というものは、シチュエーションによってはどんな言い方でもできるということだ。特に、冗談ならば、文法的に逸脱していても、間違った内容でさえも、許される。というか、だから冗談なんだよね。

この会合のあとで、居合わせた1人の方から、英会話の参考書に次のような説明があったとメールをいただいた。
「現代社会ではファーストネームにMr. Mrs. Missを付けません。付けると、召使いが主人に話しかけているように聞こえます。
・Miss Scarlet スカーレットお嬢様
・Mr. Takahiro 貴弘坊ちゃま」

これで思い出すのが『風と共に去りぬ』(1936)。召使いがスカーレット・オハラを「ミス・スカーレット」と呼んでいましたね。南北戦争時代のアメリカ南部では、「召使いが主人に話しかける」ときこう言ったのだろう。
ところが、『スタイルズ荘の怪事件』(1920)では、この物語の語り手で、客としてスタイルズ荘に招待されたヘイスティングズ大尉が、女主人エミリーの旧友の娘シンシア・ハワードに向かって、ミス・シンシアと呼びかけている。ポアロも「マドモアゼル・シンシア」と、ファーストネームにマドモアゼルを付けて読んでいる。(フランス語では、ファーストネームにマドモアゼルが付けられるのかどうか、ぼくには分からない。)

『スタイルズ荘』はクリスティのデビュー作で1920年に書かれた。『風と共に去りぬ』は1936年と、書かれたのは『スタイルズ荘』より遅いが、舞台は南北戦争時代(1860年代前半)のアメリカだから、「ミス・スカーレット」と書いているのだろう。
イギリスでは、1920年代には若い女性にミス・シンシアと呼びかけても違和感がなかったのか、クリスティだけの言い方なのか、またはある階級特有の言い方なのか。『スタイルズ荘』の「ミス・シンシア」という例だけでは分からない。

そう言えば、日本でも昔、お笑い芸人でミス ワカナという人がいた。
NHKの朝ドラではミス リリコだったが。
これはどこから来ているのだろう。

2018/06/16 20:44 | 語学COMMENT(0)  TOP

周作人読書雑記 1



周作人は魯迅の弟だ。
魯迅の『故郷』は中学の全ての国語の教科書に載っているというから、魯迅という名前に聞き覚えのある方も多いだろう。
代表作は、『狂人日記』や『阿Q正伝』など。今でも文庫本で出ている。
ぼくが高校生の頃は、竹内好の訳で魯迅の作品がたくさん出ていて、わりと読まれていたんじゃないかしら。
今はどうなのだろうか。教科書だけの作家?

教科書だけの作家と言えば、ロシアの作家ガルシンの『信号』とか、ヘッセの『少年の日の思い出』とか、いまでも教科書に載っているのだろうか。
前から疑問に思っていたのだが、日本人の作家は、漱石・鷗外を始めとして、名の知れた作家の作品を取り上げるのに、どうして外国文学は、マイナーな人たちばかり取り上げるのだろう。

魯迅と言えば、太宰の『惜別』がある。これは太宰のなかでもぼくの好きな作品で……

弟の方に話が戻ります。
周作人も文学者だった。中国語の他に日本語と英語が読めた。
『周作人読書雑記1』には、107のエッセイが収められている。すべて本に関する文章だ。日本文学やギリシア・ローマの古典まで取り上げられているが、なんといっても圧巻は中国の古今の書籍について書いているところだろう。ぼくたちは四書五経や唐詩、あるいは史記、漢書などの歴史書くらいしか知らないが、中国では古来おびただしい書籍が出ている。周作人が取り上げる中国の書物のタイトルは聞いたことのないものばかり。『扶桑両月記』とか、『和陶詩』とか、『爾雅義疏』とか、『東萊左氏博義』とか、『河渭間集選』とか、この中の1つでも読んだことがある人は、かなりの中国文学通だろう。
これら日本では全く知られていない書物の紹介文はどれも興味深いが、ぼくが特に興味を引かれたのは、禁書目録の章だ。

長くなりそうなので、次回に続く。

2018/06/15 15:01 | 本の紹介COMMENT(0)  TOP

地球にちりばめられて



多和田葉子の最新作『地球にちりばめられて』を読む。
舞台は北欧とドイツ。
登場人物は、日本人(らしき)女性Hiruko、デンマーク人のクヌート、エスキモーの青年ナヌーク、インド人の青年アカッシュなど。
これらの登場人物たちが、物語を語っていく。
ストーリーは初めから最後まで1つの話として流れるが、章ごとにそれぞれの登場人物が自分の視点から語っていくというのがミソ。面白いアイディアを思いついたものだ。

多和田の文体は言葉遣いが独特で、ユーモアがあり、日本語の散文として上質だ。
彼女はドイツに住んで、日本語とドイツ語で書いているから、言葉について敏感になるのだろう。随所に出てくる言葉に関する描写が「なるほど」と思わせる。読んでいて切なくなる時もある、言葉好きのぼくとしては。

はっきりそれとは書いていないが、Hirukoは日本人だろう。
いまはHirukoの母国はない。重大な事故が起こって国がなくなったらしいのだ。(ちょっと『献灯使』を想起させる。原発事故が遠くに見える。)

Hirukoはノルウェー語やスウェーデン語など、スカンジナビア諸国の言葉を合わせて自分で作った「汎スカンジナビア語」略して「パンスカ」を話す。移民として、スウェーデン語やノルウェー語を1つ1つ覚えていくのが面倒だからだ。北欧の言葉は似ていると言われている。ノルウェー人とデンマーク人がそれぞれの言語で話し合っても、ある程度通じるらしいという話を聞いたことがある。多和田の文章は、こういう細部の設定が上手い。秀逸なアイディアが次々に出てくる。

Hirukoが話す「パンスカ」に興味を持ったのが、言語学専攻の学生クヌート。クヌートはHirukoに会いに行く。2人はHirukoの同国人がドイツにいるという噂を聞いて、訪ねていく。旅の途中で、アカッシュ、ナヌークなどと知り合う。
ストーリーはなかなか上手い展開ではあるが、どんでん返しがあるわけでもないし、波乱万丈というわけでもない。多和田はあくまでも文体で、つまりどう描くかで読ませる作家だ。ストーリーで読ませるものは、結末が分かってしまうと、2度目に読んだとき最初の感動は得られないが、文体で読ませるものは何度読んでも面白い。

母語にこだわることはないのではないか、など、言葉に関する考察があちこちに出てくるが、これらの考察は、日本語が滅びると論じた水村美苗の日本語論に対する、多和田葉子からの答のような気がする。
英語と日本語の狭間にいる水村は、日本語を愛惜するあまり「日本語」が滅びることを危惧し、ドイツ語と日本語の狭間にいる多和田は、言語の多様性と普遍性を「日本語」で書く。
ぼくは水村に共感し、多和田にほっとさせられる……なんちゃって、なにカッコつけてんだか。

2018/06/12 20:54 | 本の紹介COMMENT(0)  TOP

新しもの 2



図書館に行くついでがあったので、広辞苑を引いてみた。
「新しもの好き」はあるが、「新しいもの好き」はない。
他に、「新しがり屋」「新しがる」が載っていた。
辞書的に言うと、グーグル検索で圧倒的多数の「新しいもの好き」を使っている人々も、『ハリウッド映画と聖書』の訳者も、ワード2010の作成者も、間違いということになる。

さらに小学館の日本国語大辞典を引いてみた。
「あたらしもの【新物】」、「あたらしもの【新者】」、「あたらしものずき【新物好】」の3つが項目としてある。「新しいもの好き」はない。(以下、【新者】は人なので除くことにする。)

「あたらしもの【新物】」の項では、1797年ごろの本『俚言集覧』から例文が取られている。
「あたらしものずき【新物好】」の項には、1926年の『明治大正見聞史』から例文が引用してある。例文は次の通り。
「新し物好きで同時に女性好きの東京市民はこれからしばらくの間注意を帝劇に集注した」。(「集中」でなく、「集注」と書いてある。写し間違いではありません。)

「新しいもの好き」は、近年の言い方であることが分かる。
それにしても一気に広がるね。

2018/06/11 11:05 | 語感COMMENT(0)  TOP

迷信 2



スティーヴィー・ワンダーの『迷信』(Superstition)をYou Tubeで検索したら、ベック、ボガート&アピスが演奏している『迷信』の映像が出てきた。
そう言えば、BB&Aの『迷信』があった。昔はレコードを持っていた、確かCDも買ったはず、と、探してみると、CDケースの奥から出てきた。
これは学生時代に後輩がレコードを持っていて、薦められて聴いた1枚だ。当時から3大ギタリストというのがあって、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックだったわけだが、ぼくはそれほどジェフ・ベックには興味がなかった。
クラプトンはクリーム、ペイジはレッド・ツェッペリンと、それぞれビッグなバンドのギタリストだったけれど、ベックのバンドは次々とメンバーを替え、長続きしたためしがなかった。そのためベックと言えばこれ、というものがなかったと思う。

しかし、このアルバムは結構聴いたかな。
ジェフは歌えないので、BB&Aのボーカルは、ベースのティムボガートとドラムスのカーマイン・アピスだった。ぼくら“ドラム小僧”は、アピスのドラミングを真似たものだ。ハイハットをシャッシャッと閉じながら、同時にバスドラを打つ、というスタイルがかっこよかった。You Tubeの映像でも随所でこのたたき方をしている。
アピスとボガートは、スプリームスのカバー、キープ・ミー・ハンギン・オンでお馴染みのバニラファッジのメンバーだった。

で、歌詞を見てみると、2番がスティーヴィーのヴァージョンと違う。
スティーヴィーは、オレに白昼夢を見たままでいさせてくれとか、お前は俺を助けたくないんだろうとか、言っていて、ぼくのように拡大解釈すれば、love songとも取れる、かもしれないが、BB&Aは2番でも、机の上に靴を置くとか、床に置いた箒越しに見るとか、家の中で傘を開くなとか、不吉な迷信を挙げているだけだ。
このアルバムの一曲目は「黒猫の叫び」という曲だ。当時は、「おどろおどろしさ」もロックの一部だったように思う。

2018/06/10 19:18 | 音楽COMMENT(0)  TOP

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