新しもの 2



図書館に行くついでがあったので、広辞苑を引いてみた。
「新しもの好き」はあるが、「新しいもの好き」はない。
他に、「新しがり屋」「新しがる」が載っていた。
辞書的に言うと、グーグル検索で圧倒的多数の「新しいもの好き」を使っている人々も、『ハリウッド映画と聖書』の訳者も、ワード2010の作成者も、間違いということになる。

さらに小学館の日本国語大辞典を引いてみた。
「あたらしもの【新物】」、「あたらしもの【新者】」、「あたらしものずき【新物好】」の3つが項目としてある。「新しいもの好き」はない。(以下、【新者】は人なので除くことにする。)

「あたらしもの【新物】」の項では、1797年ごろの本『俚言集覧』から例文が取られている。
「あたらしものずき【新物好】」の項には、1926年の『明治大正見聞史』から例文が引用してある。例文は次の通り。
「新し物好きで同時に女性好きの東京市民はこれからしばらくの間注意を帝劇に集注した」。(「集中」でなく、「集注」と書いてある。写し間違いではありません。)

「新しいもの好き」は、近年の言い方であることが分かる。
それにしても一気に広がるね。

2018/06/11 11:05 | 語感COMMENT(0)  TOP

新しもの



図書館の新刊コーナーで面白そうな本を何冊か借りた。『ハリウッド映画と聖書』とか、『閑吟集 宗安小歌集』とか。
 まず『ハリウッド映画と聖書』について少し。この本は聖書のエピソードをもとにした映画、例えば『十戒』とか、『ベン・ハー』とか、だけではなく、西部劇、ラブコメディ、ヒーローものなど、あらゆる映画に現れる聖書の影響について書いている。アメリカ文化の根底には聖書があるのがよくわかる。
しかしそれは、現代アメリカ的な聖書でもある。
例えば、『十戒』で海が割れるシーン。旧約聖書では、モーセが杖を高く掲げ、手を海に向かって差し伸べると、海が割れるが、映画のモーセ、チャールトン・ヘストンは、両手を広げて全身で十字架の形を作る。キリストの十字架が現れるのは新約聖書で、モーセが十字架の形をするのはおかしいのだが、当時のアメリカでは、「救い」=十字架だったという。

しかし、ぼくが驚いた、いや、がっかりしたのは、そんなことではない。この翻訳の冒頭の文章。
一章の1行目に「フィラデルフィアのよろず新しいもの好きな男が~」とある。
「新しいもの好き」ではなく、「新しもの好き」ではないか、と思って、グーグルで検索して見ると、「新しいもの好き」と「い」が入っている言い方の方が圧倒的に多い。
「新しもの好き」が普通の言い方だと思っていたが、いつの間にか、事情が変わったのか。   
訳者は73年年まれと若いから、こういう言い方をしているのかと思ったが、そもそもぼくが間違っていたのか。

この文はワードで書いているけど、「新しもの」と書くと、「新し」の下に赤い波線が出る。
ワードを作成した人もこの言い方は、「ない」と考えているようだ。

あとで、国語辞典などで調べてみようと思う。

2018/06/06 22:37 | 語感COMMENT(0)  TOP

ドン・キホーテへの旅 2



先に記したように、『ドン・キホーテ』の日本語訳になかなかこれぞというものがなかったので、新訳の出る余地はあった。
そこで2005年の新潮社版と2012年の彩流社版が出たようだ。
新潮社版は、「セルバンテスの語り口を大切にして講談調の文体を心がけた」という。
確かに読みやすい。短いセンテンスで畳み掛けるように訳していて、この日本語だけで、他と読み比べなければ、これはこれで面白いかもしれない。
しかし、セルバンテスの文体は息が長く、饒舌な文体だ。このうねうねと続いてゆく文章のうねりのようなものが魅力になっている。堀口大學の訳はこの辺のところがわりとうまく出ているように思う。それに比べて、新潮社版は「超訳」といってもいいような仕上がりだ。
そして、これは以前にも書いたことだが、ぼくたちはもはや、鴎外の『舞姫』のような擬古文は書けない。
子どものころから古文や漢文を叩き込まれてきていないし、大人になってからだって、学校で古典は習うものの、擬古文が書けるようなレベルに達することは不可能だ。ちょっと考えればわかることだが、『源氏物語』はスラスラ読めても、『源氏』のような文章を書くことはできないのである。いや、もっと時代を下って、漱石や鴎外の文章がスラスラ読めて十分に楽しめる人でも、漱石や鴎外のようには書けない。
読むのと書くのは、全く別物なのである。
これはぼくにとっては自明の理なのだが、最近の翻訳者の中には全く自覚のない人がいる。
1例を挙げれば、新潮文庫の『嵐が丘』の新訳。
翻訳者ご本人は、古めかしい文体で、上手に書いているつもりでいるようだが、ぼくには、陳腐で、大時代的としか感じられない。
この翻訳者、明治期のものはかなり読んだとどこかで自慢していたが、読むことと書くことは全く別物だということを自覚していないらしい。
もしたくさん読むだけでいい文章が書けるようになるのなら、世の読書家は皆、名文家になっているはずだ。しかし、そうはならない。これは口語文でも文語文でも同じだ。
だからぼくたちは、ろくに書けもしない文語的な表現はあきらめて、口語文で何とかしなければならない。
80歳代以下で、いや、私は書けると思っている人がいたら、それは、ぼくに言わせれば、自覚の足りない人である。
『ドン・キホーテ』から例を挙げよう。
ドン・キホーテが平原を歩きながら、もしこの自分の旅の初めが文章に書かれることになったら、次のようになるだろう、と考えるところがある。
それが、原文では古めかしい表現になっているようで、堀口訳でも、彩流社の新訳でも、新潮社版でも、擬古文風に訳してある。
新潮社版で、46ページの後ろから3行目の訳文を引く。

「アポロンの陽は……(中略)、果てし無い大地のかんばせにぞ輝きけり。」

古文の決まりで係り結びというのがある。中学や高校で習ったことがあると思う。「ぞ」ときたら、文の最後は「連体形」で受ける。
だからここは「かんばせにぞ輝きける。」が正しい。
百人一首の源宗于(みなもとのむねゆき)の歌に、

山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば

というのがある。ここに出てくる「ぞ」「ける」がまさに係り結びだ。
また、彩流社版で気になるのは、訳者が前書きで、「すべからく」を「すべて」の意味と勘違いして使っているところ。
高校レベルの漢文を習うと教わるが、「須らく」は「須らく~すべし」という言い方で使用する。「ぜひとも~しなければならない」という意味である。
文語文風の訳文を書こうとする者が、「須らく」という基本語の意味を取り違えているようでは心もとない。
この訳者、「没義道(もぎどう)」とか、「昧爽(まいそう)」とか、やたらと難しい漢語を使っているが、こういう言葉を使うにはそれにふさわしい文体が必要だということに気づいていないようだ。
55ページでは、「いかな騎士とも干戈を交えることはできない」と書いているが、「干戈(かんか)」という言葉は、1対1のときには使えないと思う。
干戈とは「戦争」のことで、国と国が干戈を交えることしかできない。
少なくともぼくはそう思う。

こう見てくると、やはり堀内の訳は一味違う。

2014/09/21 10:00 | 語感COMMENT(0)  TOP

ドン・キホーテへの旅



ずいぶん以前から『ドン・キホーテ』に興味があった。
面白そうだと思っていた。
ただ思っていただけではない。
いろいろと読んでみたりもした……というか、読もうとした。
しかし、これといった翻訳に出会わなかった。
最初は岩波書店の翻訳で読んだ。今は岩波文庫になっているが、当初はハードカバーで、大きくて立派な本だった。
ところが、翻訳の日本語がいけない。1ページの中に同じ接続詞が何度も出てきたり、今現在ぼくたちが使っているようなカタカナ言葉が出てきたりする。
訳者は有名な先生で、NHKのスペイン語講座で講師をしていたこともあったと思うが、日本語のセンスがぼくには合わなかった。(最近、彩流社から出た『ドン・キホーテ』の翻訳の「まえがき」では、スペイン語界の重鎮を批判できないのだろう、カタカナ語を取り入れた「斬新な訳」とコメントしていた。)
で、1985年に晶文社から出ていた会田由の訳(現在はちくま文庫)を読んでみたが、これも途中までしか読めなかった。やはり日本語がしっくりこない。
そうこうしているうちに、「いい翻訳がなくて『ドン・キホーテ』は正編しか読んでいない」と丸谷才一が発言しているのに出くわした。
そうか、丸谷もぼくと同じように感じているのかと、思わず膝を打った。
そこで、丸谷が「読める翻訳」として挙げていたのが、堀口大學訳の『ドン・キホーテ』だった。これが正編しかないので、丸谷は先のように発言したわけだ。
これは知らなかった。
さっそく古本で注文する。
なるほど読める日本語で書かれている。
堀口はスペイン語も読めたらしく、スペイン語から翻訳したと「まえがき」で書いているが、フランス語訳を参照したとも書いている。どちらかというとフランス語訳からの重訳の可能性が高いでしょうね。
この辺のところは、彩流社版『ドン・キホーテ』の「まえがき」でも、やんわりと指摘しているような気がする。
しかし、「読める日本語」になっているのは今のところ、堀口のものだけだろう。
2005年には、新潮社から超訳風の翻訳が出ているし、新訳と銘打っている彩流社版(2012)もあるわけだが。

新潮社版と彩流社版の日本語については次回に譲る。

2014/09/17 17:16 | 語感COMMENT(0)  TOP

普段! 普断?




長谷川如是閑のロンドン紀行に『倫敦!倫敦?』(岩波文庫)というのがある。
内容はほとんど覚えてないが、とっても面白かったという記憶はある。
タイトルはこれから借りた。

丸谷才一の全集第1巻のメインになっている『女ざかり』を読んでみた。
吉永小百合主演で映画化されたから、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。
丸谷のものは、出ると同時に読んでいるので、再読である。
久しぶりで読んだ。内容をほとんど忘れていたので、面白く読めた。
次々に面白い趣向を凝らしている。
ストーリーも上手くできている。次がどうなるか気になって、どんどん読まされてしまう。
興味のある方はお読みください。

で、いきなり本題に入る。
『女ざかり』を読んでいて、「普段」という漢字が気になって仕方がなかった。
ぼくが気づいただけで、11箇所「普段」という言葉が使われている。
『鈍感な青年』のように「普断」ではなく、ふつうの「普段」。
小説を読むとき「普段」が何回使ってあるかなんて数えたことはないから確かなことは言えないが、これはけっこう多いのではないかという気がする。
『女ざかり』の次に収められている『おしゃべりな幽霊』には、「普段」が1例も出てこない。これは短い作品だから『女ざかり』とは比較にならないと言えば、比較にならないが。
丸谷ほど用字用語や文体にこだわる書き手が、無造作にこれだけたくさんの「普段」を、『女ざかり』で使うとは思えない。きっと何か意図があるのだろう。
それにしても、「普断」は、『鈍感な青年』に1例だけというのは、気になる。
やはり誤植か。
これからしばらくは、丸谷の小説を読むたびに「普段」の数をかぞえてしまいそうだ。

2013/12/22 18:42 | 語感COMMENT(0)  TOP

 | BLOG TOP |  NEXT»»