翻訳では掬いきれないもの



オルダス・ハクスレーの「ジョコンダの微笑」を原文で読んでいる。
ハクスレーの文体は、詩句などの引用をちりばめた、ぺダンチックな文体だ。
出典を明記せず、次々に引用してくる。
フランス語、イタリア語なども随所に出てくる。
引用でなくても、一つのセンテンスが、その背後に別の意味を示唆していることもある。
こうしたことは原文で読むとよくわかるが、翻訳してしまうと、ほとんど滑り落ちてしまう。翻訳者にはこうしたことは当然わかっているはずだが、原文にない解説を付け加えることはできないので、英文を日本語に置き換えるしかない。ハクスレーのような文体は、翻訳者泣かせだ。
たとえば、英文の中に出てくるフランス語やイタリア語などの外国語も、日本語に置き換えられてしまうので、英語の中で外国語を使っている気取った文体を訳出することができないのだ。
例を挙げよう。
主人公のハットンは、人からあなたはcynical(皮肉屋)だと言われると、 bow-wow-wow(ワンワンワン)と吠えたくなるという箇所がある。
ここは「あなたはシニカルね」と言われると「ワンワンワン」と吠えたくなる、としか訳せない。原文を知らない日本人ならそれで問題ないし、ストーリーが追えないわけでもない。
しかし、cynicalの語源を知っていると、ブーブーブーではなく、なぜワンワンワンなのかわかる。cynicalはギリシャ語の犬という単語から来ているのだ。
ギリシャ哲学の一派で犬儒派という学派をご存じだろうか。
高校の倫理社会などで習ったことがある方もいるかもしれない。
この犬儒派、日本ではキニク学派と呼ばれることもある。キニクは英語で言うとcynic(皮肉屋)となる。で、cynicの形容詞形がcynicalだ。
ハットンが、他人から皮肉屋と呼ばれたとき、ワンワンワンと吠えついてやりたいと思うのは、シニカルの語源から犬を連想しているからなのである。
もうひとつ。
ハットンがミス・スペンスに対して、a Cinquecento gestureをしたという描写がある。
翻訳では「16世紀風のしぐさをした」となっているが、16世紀風のしぐさとは何かは訳出していない。
Cinquecento(チンケチェント)はイタリア語で500という意味。Cinqueが5で、centoが100。じつはこのまえにmil(1000)という語が省略されている。
Cinquecentoは、1500年代、つまり16世紀という意味なのだ。
イタリア美術史では、チンケチェント(1500年代=16世紀)とか、クアトロチェント(1400年代=15世紀)という言い方をするらしい。日本で出ているダ・ヴィンチ関係の本でも、イタリア語のこの言い方を使っている。
では、「16世紀風のしぐさ」とは何かというと、女性の手を取って、手の甲にキスをすることだという。これは知り合いのイギリス人に教えてもらった。

「ジョコンダの微笑」は30ページくらいの短編だが、上のような箇所が各ページに何箇所も出てくる。
ハクスレーのほかの作品もたいてい同様の文体で書かれている。
ハクスレーは翻訳者にとってかなりストレスフルな作家なのである。

2016/02/15 17:37 | 語学COMMENT(0)  TOP

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