名作はご都合主義



昔、何気なくつけたラジオで放送大学をやっていて、英文学者で演劇評論家の小田島雄志が話していた。
劇の前半から、王を殺して父親殺しの仇を討つチャンスが何度かあるのに、なぜハムレットは仇を討たないのか。この問いに対する、小田島の答が振るっていた。
そうすると『ハムレット』が終わってしまうから。
たしかに。
早い段階で復讐がすんでしまっては、ハムレットの独白も、オフィーリアの死もなくなってしまう。劇として成り立たない。シェイクスピアはわざと、ハムレットにぐずぐずと悩ませているわけだ。

例えば、『嵐が丘』。ヒースクリフは何者なのか遂に分からない。ヒースクリフ自身でさえ自分が何者か分からないだろう。ところが、物語の前半で都合よくあらわれて、エドガー・リントンとキャシーとの間に割り込む。しかし、ヒースクリフが出てこないと、『嵐が丘』という小説は成り立たないだろう。無理やりだろうが、何だろうが、ここで出しておく必要があるのだ。

あるいは、『トリスタンとイゾルデ』。誤って媚薬を飲んだため、2人は激しい愛情にとらわれる――うーん、これはありうるかもしれないな。

じゃあ、『ジェイン・エア』はどうか。天涯孤独だったジェインに、偶然、従兄妹が3人も見つかったり、莫大な遺産を相続したりする。従兄のセント・ジョンは聖職者で、ジェインに結婚を申し込む。そしてセント・ジョンは、「もしあたながこばめば、それはわたしでなく、神をこばむことになるのをお忘れなく」(河野一郎訳)なんていう強引なヤツで、ジェインはもう少しで押し切られそうになる。
ところがその瞬間、「ジェイン! ジェイン! ジェイン!」という叫び声が聞こえてくる。それは、その場にいるはずのないロチェスター声だった。もちろん、ジェインにしか聞こえないことになっている。(新潮文庫下巻441ページ。)
これでジェインは我に返り、セント・ジョンの求婚を退けて、ロチェスターの屋敷に戻る。戻ってみると、狂人だった、ロチェスターの妻は、屋敷と共に焼け死んでいた。
そこで目出度く2人は結婚する。

古典とか、傑作とか言われている小説、実は意外とご都合主義的なものが多いように思う。だからと言って、作品の価値が下がるわけでもないし、面白さに欠けるわけでもない。
まあ、どんな名作でも、突っ込みを入れようと思えば入れられるのだ。
ただぼくたちは、小説の世界に入り込んで、話の流れに乗っているから、あるいは主人公に肩入れしているから、気にならないだけだ。
いちいち突っ込んでいたら、本など読めない。

この前たまたま、ツィッターで朝ドラの矛盾点をあれこれあげつらっているのを読んでインスパイアされたので、こんな文章を書いてみた。

2016/07/09 18:42 | エッセイCOMMENT(0)  TOP

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