ここには希望がない?



東京都知事の小池百合子が政治塾を開いたというニュースを見ていたら、小池さんが、「この国には何でもあるが、希望だけがない」と言っていた。それで「希望塾」なのね。
これ村上龍のパクリじゃないか、と思ったが、ニュース映像では出ていなかっただけで、村上龍の『希望の国のエクソダス』からの引用だと、おそらく、講演では断っているはずだと思い至った。
村上の小説に出てくるこのセリフ、ぼくは以前から気になっている。ちょっと見にはカッコいいので、この言葉だけが一人歩きしているように思われるのだ。
そこで村上の意図を探るべく『希望の国のエクソダス』を読んでみようと何度か挑戦したのだが、あきらめざるを得なかった。同じ村上でも、龍は春樹と違って、非常に読みにくい文章を書く。主語と述語が対応していないといったようなことではではない。文体が無味乾燥で、読んでいて話に引き込まれないのである。
村上龍のファンの方には申し訳ないが、この文体はぼくには耐えられない。
というわけで、『希望の国のエクソダス』を読んでいないので、ぼくの意見は的外れになるかもしれないが、「この国には何でもあるが、希望だけがない」という、独り歩きしていると思われる言葉だけに限って書いてみたい。
まず、言いたいのは、何不自由のない暮らしをしてきた中学生が、こんなセリフを吐いても思い上がっているとしか思えないということ。比較的安全な国に住んで、満ち足りた暮らしをしているから、こんな暢気なことが言えるのだ。
世界には、ほとんど何もなくて、希望さえない子供たちがたくさんいる。
たとえば、このあいだNHKのテレビ番組で見た、バングラディシュの子どもたち。8歳くらいから日干し煉瓦を運ぶ仕事をしていた。初めてこの仕事についた女の子は、頭の上に2つ煉瓦を載せて運んでいた。それでもふらついていた。慣れている子は3つ煉瓦を頭の上に乗せて運んでいる。かなり重そうだ。何年も煉瓦を運んでいる男の子は、まだ10歳くらいなのに、顔には深い皺があり、どう見ても老人の顔つきだ。毎日、頭に重い煉瓦を載せているから、身長は伸びない。しかも、1日働いて、日本円で何十円かだ。それでも働かざるをえない。学校には行かない。
NHKは下手なコメントを入れず淡々と描いていたが、いろいろと考えさせられた。この子たちの将来の幸せを祈るばかりだ。
日本には本当に希望がないのか。そんなことはないだろう。
世界の水準から言えばかなり恵まれた暮らしをしている日本の中学生が、このようなレトリックを弄しても、空しい。バングラディシュの子どもたちに笑われるだけだろう。彼らと切実さが違う。

うーん、こんなこと、村上龍は分かってるよね。だから、前後の文脈がないと、この言葉を云々できないわけだが、『希望の国のエクソダス』をどうしても読むことが出来ないのだから、ぼくの意見は推測の域を出ないのである。

2016/11/03 22:31 | エッセイCOMMENT(0)  TOP

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